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2016年の涼画動

2016年の涼画動もステキな動画が投稿されました。
良さを言葉にしてみたいMADが沢山ありましたが、今回は「動画とは何ぞや」「編集とは何ぞや」という基本を改めて考えさせてくれた3つのMADに絞って、ものすごく今更ですが書き残しておきます。




HEAT-MPさんのMAD

映像は、技術の進歩で精細になり、情報量は増える一方ですが、映像を見る側はあんまり進化してないので、受け損ねる情報も増すばかりです。
なので、現在の映像は、情報の見落としを防ぐために、フレーミングを工夫して視線誘導したり、音やテロップで注視すべき要素を強調したりと、言うなれば「ここを見てください」という注釈入りで提示される事が多くなっています。

このHEAT-MPさんのMADは、色や速度を減らし、映像を単純化させています。
もはや注釈など必要としないほどに単純化された映像は、人物や舞台のモーション、そしてカメラムーヴといった、映像そのものが持つ「動き」の気持ちよさを、改めて感じさせてくれます。


また、現在の映像は「動く写真」を求めて作り出されたキネトスコープやシネマトグラフの延長にあるものですが、映像の単純化によって、それ以前にあったゾエトロープやパラパラまんがを思わす質感(動きを一度解体して、再度並べ直したような動作感)が生まれている点もユニークです。

シネマトグラフ以前からあった再構築された人物/物体の動きと、シネマトグラフ以降に登場した被写体を捉えるカメラ自身の動きが、少しズレながら同居している。
その面白さは、ディズニーがCG導入によって成し得た『美女と野獣』ダンスシーンや、細田守演出の『明日のナージャ』オープニングに通じるものがあります。

少しズレているからこそ面白さが際立つ、というのは重要なポイントですが(『美女と野獣』が滑らかなフル3DCGアニメーションだったら、あのダンスシーンの快感は生まれないでしょう)、なぜ違和感が快感を呼ぶのかについては、考えがまとまらないので自分の宿題にしておきます。





どらけけさんのMAD

小鳥さんをメインに据えた映像群の中に、無人のトレーニングルームを映したカットを挿入する。
すると、「かつてこのトレーニングルームでレッスンしていた小鳥さん」や、「今はもうここに来る事がない小鳥さん」など、見ている人がそれぞれに情景を思い浮かべる事が出来ます。
カットを割って、映像を繋いでいく。すると、映像に含まれる以上の情景が生まれてしまう。編集という魔法を改めて感じさせるMADです。


映像に慣れきった私たちにとって、映像編集/モンタージュはごく当たり前のものです。ただ、私たちが日常的に見るモンタージュは、「顔のアップの後に食べ物を映すと、その人物が空腹そうに見える」的な、隣接する映像/あるいは周囲の映像群に一定の意味や方向性を与えるためのモンタージュがほとんどです。そしてそれは、主に情報や物語を効率よく伝えたり、強化するために使われます。

そういった編集を悪く言うつもりは全くありません。僕は、編集で上手に情報や物語を伝えられる人を凄いと思うし、憧れます。
ただ、編集から生まれる表現はもっと多様にあると、どらけけさんのMADを見て気づかされました。

かけ離れたものを引き寄せる。
時間を無効化する。
「ミシンとコウモリ傘」的な偶発性やデタラメさを面白がる。
あるいは、どらけけさんのように、小鳥さんと無人のトレーニングルームのカットを繋いで、可視化されていないけれども確かに存在する情景を浮かび上がらせる。
編集が出来ることは沢山あります。


アイマスMAD、特に僕がよく見ていた2010年までのダンスMADを思い起こすと、ミシンとコウモリ傘タイプの編集は稀にありましたが、他の特殊な編集を意識的に行なっていた動画はなかなか出てきません。
(近年のMADはほとんど見ていないのであまり言及できませんが、アニマスやシンデレラガールズを用いたアニメMADを経由した現在は、ユニークな編集も行われていると思います。例えば回PやリンPは、映像間の次元や時間や距離を無効化して全て並列する見事な編集をしています)

ただ、僕の知る中で例外として思い浮かぶのが、qbさんのMAD群、特に『流れてくれない(sm10669123)』です。当時、熱心なダンスMADファンの多くが、あのMADの不思議な魅力に囚われましたが、その引力の正体はようとして知れませんでした。
今にして思えばあれは、ダンス映像を繋ぎながら、ダンスならざる情景を浮かび上がらせていたのではないか。しかし私たちはダンスMADという形式にとらわれていたので、そのダンスならざる情景を掴み損ねていたのではないか。そんな気がします。


蛇足ですが、アイマス2以降のqbさんは、MADの設定や状況のようなものをやんわりと提示する、私たちが物語や情景を想起しやすい作りになっていった気がします。例によって、2011年以降のqbさんのMADをほとんど見ていないので断言は出来ませんが。


*『流れてくれない』はもう見る事が出来ないので、『流れてくれない』と共通するモチーフを持つ(インスピレーションとなった動画の一つかもしれません)SAIZPのこちらを紹介しておきます。アクセや衣装のコーデだけで物語や情景を生み出す力、そしてそれを視聴者が読み取る力は、アイマス動画の強い所ですね。

ついでに、僕の大好きな映画の世界の話もしておくと、やはり映画においても、編集はもっぱらストーリーテリングの強化に使われる傾向にあります。
近年の嬉しい例外として、押井守監督の実写版『パトレイバー 首都決戦』の中で、アニメ『パトレイバー2 the Movie』に登場した南雲しのぶが、画面上に映っていないにも関わらずその存在感を強烈に浮かび上がらせる見事なシーンがありました。10年以上の歳月の壁も、アニメと実写の壁も、そもそも違う作品であるという壁すらも一瞬で乗り越えて、アニメ『パト2』の次元にいる南雲しのぶが、現在の実写作品に現れてしまう。こんな事が出来るのは押井守監督しかいないので、ファンは「パト2の焼き直しじゃねーか」なんてみみっちい事は言わず、もっと褒めたらいいのに、と思います。


どらけけさんの涼画動MADでは、『青空を許せたら(sm29436138)』も素敵でした。
アイマス世界には、一方に歌田音や軽口哲也のような記号的キャラクターが、一方に人格のあるアイドルたちが居て、プロデューサーはその中間にあるような気がします。ユーザーをプロデューサーとみなすコンテンツの性質上、ゲームやアニメの中のプロデューサーに強い人格を与えないのは方針として間違っていないと思いますが、でもやっぱりアニマスのPだってアイドルマスターの世界において大切な一人な訳で。情景を積み重ね、アニマスのPをそっと人格の方に寄せてみせる『青空を許せたら』は、とても優しいMADだと思います。




白昼夢さんのMAD

ほとんど波音でかき消される程うっすらと沖縄民謡が流れるサウンドトラックと、夕暮れを思わす質感の中で響が踊る映像。
アイマスMADではダンスシンクロという言葉が頻繁に使われるように、音と映像の同期が重視されますが、このMADを見ると音と映像のズレも表現として面白いと気づかされます。


例えば、野外フェスでミュージシャンが演奏している映像は、基本的にステージ上の演者と盛り上がる観客たちで構成されます。
でも、現地で視線の向きを少し変えると、盛り上がる観客たちの遥か後方で、芝生に寝転びながらビールかっくらってイイ具合に出来上がりつつボンヤリとステージや、ステージ脇の巨大モニタを眺めている人たちもたくさんいます(そういえば、このMADはモニタ映像を思わすフィルタがかかっています)。
演者と芝生に寝転んでいる人たちの間にある距離感を出そうとする映像はあまり無いかもしれません。映画『ウッドストック』はステージから遠そうな観客たちも映されますが、あれは演者も客も全て狂乱の中で並列されているので、距離感ゼロですし。


白昼夢さんのこのMADは、映像自体は一般的なダンスMADとして構成しながら、環境音を前面に出す事で、ステージを遥か後方から眺めているような距離感を作り出しています。カメラと被写体の距離を変えずとも、曲と環境音のボリュームを反転させるだけで視聴者と被写体の距離は変えられる。とてもスマートな演出です。

動画説明文は「サーサー節」の一節ですが、動画中で流れている曲もそれであるかは、沖縄民謡に明るくない僕には分かりません。
この一節を通じやすい日本語文章にすると「ここで踊って遊ぼうよ、こっちに来てよ、みんな」といった感じでしょうか。映像の距離感演出と呼応する素敵な動画説明文です。
[ 2017/02/11 15:40 ] 好きなアイマス動画 | TB(0) | CM(0)
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Author:かりふら


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